THE TALE OF...
 
~snigle malt whisky~
 


なぜ彼女は泣いたのか

侍は黙々と作業をしていた。
それは、何かをしていなければ自分がどうにかなってしまうため、何かから逃げるために作業を続けているように見えた。
私は自分が誰であるかを思い出すために必死になって頭を働かせているのに、彼は自分が誰だったかを忘れようとしている。

自分が誰だったかを忘れる。
それは忘れたくても忘れられないことなのに、
おそらくは世界中の人が挑戦したとしても誰一人として意図的に自分が誰だかを忘れることに成功した人はいないのではないか。
にもかかわらず彼はそれに挑戦している。
私は自分が誰だかを忘れさせられた。
彼は自分が誰だかわからないという状況がどれほど不安で
恐ろしいものであるか知っているのだろうか。
否、もし彼が過去にとんでもない過ちをおかしていたとするなら
それは自分が誰であったかを忘れることにより、解決できる問題なのだ。
もし私が過去にとんでもない過ちをおかしてしまった人間だったら、自分が誰だか忘れてしまった私は幸せなのかもしれない。
なんの罪悪感もなく、ただ黒い粉末を一定量いれる作業を繰り返していればいいのだ。
私が誰であったかを思い出すことは、この作業を繰り返す限り必要なことではない。

しかし現実に私はここにいる。
生きている。否、足枷をつけられているから生かされているといった方が妥当なのかもしれない。
この作業には何の意味があるのだろうか、何を作っているのだろうか。この粉末は何が原料なのだろうか。それを考えることは無意味なのだろうか。
私は何のために生かされているのだろうか。
簡単だ、この作業をするための人員に過ぎない。
では私以外の誰でもよかったのになぜ私なのだろうか。
私でなければいけない理由があるのだろうか。この作業をするために私は記憶を奪われなければならなかったのだろうか。
もしそうでないとしたら、私はなぜ記憶を奪われたのか。
この作業と私の記憶は何か繫がりがあるのだろうか。そうとしか考えられない。
でなければわざわざ私の記憶を奪う必要がないのだ。
それとも、ただ私が勝手に自分の記憶を失くしてしまっただけなのだろうか。
そうかもしれない、現実にあの侍は記憶を持っているのだ。否、そう感じるのだ。
その感覚はは記憶を持っているものと持っていないものでわかるのだ。
しかし左側にいるやつはどうやら私と同じ類らしい。
となると、私が勝手に記憶を失くしたとは考えにくい。あの侍が例外なのか、私たちが例外なのか。
ベルトコンベアーはどこからともなく流れてきて、私の左側へ進んでいく。この先には何があるのかしらん。

私の記憶は今どこにあるのだろう。誰かがちゃんと保管してくれていて、いつか返してくれるのかな。

疑問ばかりが出てきて何一つ解決するような問題はない。
ただ、自分が誰だったかを思い出せたらそれらは全て、キレイサッパリ解決できるような気がするのだが・・・
誰か私を知っている人はいないか
誰か私の名前を知っている人はいないのか
耳の奥から誰かが私の名を呼ぶような声が聞こえるのだが、何を言っているのか聞き取れないでいる。否、私自身が私の名を思い出すことを拒否しているのかもしれない。だから聞こえないのだ。
聞こえていても聞こえていないフリをして、逃げている。
耳を傾けなければならないのはわかっているが、今ここにある疑問を全てキレイサッパリ解決することを拒んでいる私がいるのだ。なんて臆病なんだろう。

真実を知るのが嫌で、いつまでもここにいるつもりなのだ。
分からないフリをして、いつまでも夢うつつの気分を味わっていたいだけなのだ。
本当は記憶なんかなくしてなんかいない、頭の中にちゃんとあるのに忘れたフリをしてこの状況を楽しんでいるのだろう。
思い出すのが嫌だから、ただ単調な粉末を入れる作業をくりかえしているんだろう。

あの侍もきっとそうだ。
最初は記憶を失くしたフリをして、思い出すのが嫌だったから黙々と作業をしていたのに、私と同じことを考え、自分の記憶から逃げることをせず、受け入れたのだ。
そして彼は後悔し、また自分の記憶を頭の奥底深くに沈めるため、黙々と作業をしているのだ。
だから、私は思い出してはいけない。
思い出せば後悔し、今度は意識的に自分の記憶を失くそうとしなければならない。

しかし現実に私の最後の記憶は不愉快な音だけだ。
それ以前は空白だ。思い出そうとしても思い出せない。
肉体的に私は赤ん坊ではないのだから、それなりに成長しているのだ。だからそれまでの記憶を持っていても自然なのに、ない。
頭の中で私を呼ぶ声は聞こえなくなった、最初から聞こえなかった、否、最初からそんな声は存在などしていない。
それは私の頭が作り出した幻想にすぎない。
もともと私の頭の中には私に関する情報は入っていないのだ。

このまま忘れてしまったままのほうが楽なのだろうか、それとも思い出さなければならない大切なことがあるのだろうか。
そもそも私という人間がわからないから、それすらも分からない。

疑問が疑問をよび、あまりにも巨大化してしまい私自身どうしようもなくなってしまった。
そんなときに涙があふれてきたのです。



4月15日(土)01:48 | トラックバック(0) | コメント(0) | THE TALE OF... | 管理

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